ゴーモン、ノー

「発展的な強制尋問手法」を動機づける通俗心理学と通俗神経生物学に関して

 2009/4/16に米国司法省は、ブッシュ政権時代にテロ容疑者に用いられた強制的な尋問方法について詳述した文書を発表した。
http://www.aclu.org/safefree/general/olc_memos.html
 この文書の発表は、強い倫理的・法的な異論の存在下でのテロ容疑者から情報を引き出すためのいわゆる発展的尋問手法(拷問を含む)の使用に関する議論に火をつけた。このような手法の使用は明らかに誤った通俗心理学によって動機付けられているようにみえる。反復されて極端なストレスや痛みが記憶や高次機能(何かを計画するとか意識を型作るとか)にいかに影響するかというまともな科学的な証拠は、こういった手法が強制や「発展的」な尋問で意図するものと全く正反対のことしかできなさそうなことを示唆する。
 発表された文書は、拷問や強制に賛成したくなるような裏付けとなる神経心理学的なモデルについては全く記述がないだけでなく、議論もなされておらず、最近の認知神経科学の文献の参照もなされていない。せいぜい、拷問に関しての精神的なリスクについて、アメリカ精神医学会のDSMに言及するくらいのものである。文書は心理学者や健康科学の専門家に意見をきいていることが書かれているが、こういた専門家のアドバイスは公表されておらず、そのため検証することができない。
 文書から読み取れることとしては、裏付けとなる神経生物学的モデルとしては以下のようなものらしい。情報(定義によると、この記憶は長期記憶、つまり経験や出来事、事実を個体が記憶するのを数分間維持して、数十年にもわたるものになりうるものをさす)を誰かがもっているとする。この人々は尋問されるときに、意図的に情報を隠す。そこで、ある種の非言語的な手法(Box1)を一定期間(報道やほかの報告によれば6ヶ月やそれ以上になることもあるらしい)用いることで拘禁によって長期記憶からの情報の放出を容易にする。文書は、捕われている人がこういった情報を強制によって漏らすメカニズムについてちゃんと説明をしていない。にもかかわらず、ショックやストレスや不安、周囲の環境を認知できなくさせること、自己コントロールをなくさせることを繰り返し引き起こすことで、通常の尋問方法と比較して、容疑者の情報提供をより効率的にさせるという考えに基づいているようにみえる。容疑者は長期記憶から情報を提供し、拷問を終わらせようと動機づけられるため、この手法で記憶から引き出された情報は信頼に足り、事実と符合すると仮定されている。このモデルを裏付けるデータはまったくないし、ほんとうに科学的な証拠によって裏付けられていない。ヒトの記憶や高次機能に関する現在の神経科学のモデルはとても異なる。海馬や前頭野の構造や機能的な統合は、普段の睡眠と同じくらい、通常の記憶の機能に欠かせないものになっている。海馬と前頭前野は密接にかかわり合っており、互いに制御もしあっている。以前覚えたことを呼び起こそうとすると、脳の様々な領域を活性化させるが、特に前頭前野と海馬が活性化される。さらに前頭前野での活動は特に意識的に行う記憶へのアクセスや収集と関連がある。これらの脳の領域がまともに機能しなければ、記憶や高次機能(意識、行動の計画や制御)もだめになってしまう。
 ストレスは脳や体で興奮を高めたり覚醒させたりするし、現在や未来の出来事をコントロールできないことからこれから起きる出来事が不快だろうという考えを抱かせたりもする。ストレスを体験すると、ストレスホルモン(コルチゾルや、ノルアドレナリン等のカテコールアミン)の放出が行われる(Fig.1)ストレスホルモンは「逃走か闘争か」(脅威に反応するための、体や脳によって即座に行われる予備反応)という、過剰に長続きすると、該当する脳野の神経生物学的な機能の低下やさらには組織学的な損傷にさえつながる反応を、引き起こし支配する。海馬や前頭前野にはストレスホルモンによって活性化される受容体が豊富にある。コルチゾルは海馬や前頭前野に豊富にある糖質コルチコイド受容体に選択的に結合し、カルシウムイオンの流量を増やし、そうして、神経の興奮も増大し、かなりの時間にわたって維持される場合には通常の生理機能をそこなうことになる。カテコールアミンは脳の多くの場所(海馬や前頭葉前部も含む)を支配しており、血糖値の上昇、血圧上昇、心拍等に対して多くの機能を果たしている。これらの反応は短期間では有意義なものであるが、長期間にわたって「高い覚醒」が維持されてしまうと脳や体への長期間の障害をおこしてしまう。さらに言えば、扁桃体(恐怖や脅威に関する刺激のプロセスに関与している)が大きくなり、その後も続くストレス体験の効果を増幅するネガティブフィードバックループを形成してしまう。最終的に、睡眠障害が長期にわたって維持されると、これがコルチゾールを増やしたままにするせいもあるのだが、記憶を消去してしまう効果につながる。
 ヒトや動物を用いた実験による、極度のストレスがやる気や記憶に及ぼす影響については多くの文献がある。ここでは複雑なものを簡単にまとめておくと、
 慢性で継続した過剰なストレスは
 1.長期増強(LTPと略され、脳での記憶の生成の根底にあるとされる生物学的プロセス)を抑制し、長期抑圧(LDPと略され、LTPの反対)を起こしやすくする。
 2.海馬の萎縮を生じさせヒトでも動物でも、学習に問題を生じさせる。
 3.多くの精神医学的な病態に関連するとされる(特に、不安や鬱、PTSD

 注目すべきは、コントロールしがたい苦痛に、長期にわたって繰り返しさらされる(電気ショックなど)と、深刻ではあるが、痛みを生じないストレスにさらされている中で見つかってきたのと似たような効果が生じることである。

 拷問に賛成するよくある議論としては、多くの生命が救われうるような時限爆弾のケースや切迫した大きな危機の場面に関してメディアのコメンテーターがよく言うように、囚人の長期記憶から隠された情報をうまく引き出せるとするものである。現実主義的な反拷問の議論はそうはできないとするものである。つまり、拷問は正しい情報を引き出すのと同じくらい間違った情報を引き出しうるし、これらをしっかり判別するのは困難である。容疑者が述べる情報がただし以下どうか見極めるのは困難かむしろ不可能であろう。尋問の間に反応を引き出すために、拘束者によって示される情報は意図しないうちに容疑者の記憶の一部となる、というのも、容疑者は極度のストレス下に置かれ、何年も前に起きたかもしれないことを語ったり繰り返し話したりするようしいられるためである。他にもこの問題を悪化させる要因がある。作話症(病的な、誤った記憶を作り出すこと)は前頭葉障害によるものであるが、すでに述べたように、継続した過度のストレスは、前頭葉機能を消すような効果がある。したがって、拷問を受けた容疑者の述べることを作ったものなのか本当のことなのか見分けるのは困難であろう。

 特殊部隊での過度のストレス研究は、ストレス環境におかれた兵士(米軍捕虜の体験モデルの訓練中、食事や睡眠を奪われるストレス下にさらされた)は空間認識能力や以前に学習したことを思い出す能力の低下がみられることを示した。ひどい拷問にさらされたことのある人々の脳の画像には、トラウマとなるような出来事を呼び起こす言語記憶の欠損につながる、前頭葉や側頭葉に異常な活性パターンが存在することが示唆されている。薬理的にコルチゾールを上昇させられた人々の最近のメタアナリシス的な研究からは、ヒトでは記憶の収集がうまくいかなくなると結論づけられており、社会心理的なストレス刺激によるコルチゾールの上昇も同様であるとされた。対照的に、穏やかにストレスをかけることはおおむね記憶の呼び出しをうまく行えた。拘束や移送、続けざまの尋問の体験だけでも、容疑者に情報を提供させるのにちょうどよいのをこえているようである。
 拷問が行われる環境において、拘束者と被拘束者は異なる動機をもつ。拘束者は被拘束者に、長期記憶の中から重要な情報を話し、示して欲しい。被拘束者は重要な情報を漏らすことなくストレスがかからないようにしたい。