序章

カフェテリア

 
 友人の一人のキャロリンが、大きい都市の学校への給食提供の統括者だとしよう。彼女は、毎日カフェテリアで食べる数百もの学校の数十万の生徒の面倒を見ないといけない。キャロリンは栄養学のちゃんとした教育を受けていて(州立大学の修士号)、あんまり昔からの考え方に縛られないクリエイティブなタイプだ。

 ある晩にワインを一瓶あけながら、キャロリンはスーパーマーケットチェーンと仕事をする統計志向の経営コンサルタントのアダムと、興味深いアイデアを練っていた。何もメニューを変えないで、食事の見せ方や並べ方で子供達の食事の選び方に影響を与えられるかどうか実験してみようというものだ。キャロリンは何十校ものカフェテリアの責任者に、食事の種類を見せる方法についての細かい案内を出した。デザートを最初に置くところもあれば、最後に置くところもあり、別の列に分けて置くところもあった。さまざまな食事の配置は学校ごとに異なっていた。目の高さのところにフライドポテトを置くところもあれば、人参スティックを置いているところもあった。
 スーパーでの商品陳列計画の経験から、アダムはドラマティックな結果になるだろうと思っていた。正しかった。単にカフェテリアを再構築するだけで、キャロリンは多くの食品の消費量を25%も増やしたり減らしたりできたのだった。キャロリンは大きな教訓を得た。学校の子供達は(大人みたいに)置かれた状況の変化に大きく影響を受けうる。影響は良い方にも悪い方にも働きうる。例えば、キャロリンは健康的な食事の消費を増やすことも出来るし、不健康な食事の消費を減らすことも出来ることが分かっている。
 一緒に取り組んだ数百もの学校や、データ収集と分析に集められた大学院生のボランティアのおかげで、キャロリンは自分が、子供達が食べるものに対してかなり強い力を持つと思うようになった。彼女は新しく見つけたこの力で何をすべきか思案しているところだ。いつも真面目だけど、時々ふざけるような友人や同僚から集まった選択肢が5つばかりある。

1:子供に一番いい結果を生じるようなご飯を並べて、全部考えられたものになっている。
2:運任せで食事を選ぶ。
3:自分の意志で選んだようにして同じ食べ物を選ぶように仕向けようと食事を並べる。
4:沢山見返りをくれそうな業者からの商品の売れ行きを最大化する。
5:利益を最大化する、以上、まる。

 1:はかなり良い線ではあるけれども、ちょっと押し付けがましいのが難点だ。だけど他のとなるとひどくなる。2:で、食事をランダムにセットするのは公正で理にかなったように見えるかもしれないし、ある意味では中立的だ。だが、もし学校間で指示がランダムになると、他の学校よりも健康的でない食事になってしまう学校の生徒が出てくる。これは望ましいことだろうか?もし、生徒の健康を向上させる面で、簡単に殆どの生徒を改善させられる場合に、キャロリンはこういった中立性を採るべきだろうか?
 3:は押し付けがましさを避ける、つまり子供達が自分自身で選択したかのように見せかける、のは結構良い試みかもしれない。しかしちょっと考えてみたら実施困難なことがわかる。アダムの実験からは、子供の選択は陳列の順番に左右されることが判明している。そうすると、子供の本当の好みとはなんだろう?キャロリンが「生徒達の’自分の意思’で選ぶことを理解しようとすること」はどういう意味を持つことになるのだろうか。カフェテリアでは何らかの形で食事を並べないわけにはいかないのだ。
 4:はキャロリンのような立場の不正な人には魅力的かもしれないし、食材の注文の操作自体が権力を握るのに非常に強い武器になりうる。しかしキャロリンは誠実で正直な人柄で、こんな選択肢は一顧だにされない。2:と3:みたいに5:も利点がないわけではない。もしもキャロリンがとにかく金が儲かるカフェテリアが良いカフェテリアだと考えるなら、だが。しかし、キャロリンが学校部門で働いていて、子供の健康が損なわれるとしても、利益を最大化すべきだろうか?
 
 キャロリンは著者達が名付けるところの「選択設計者」だ。選択設計者は人々が決定を下す状況を整備する責任がある。キャロリンは著者達の想像上の人物にすぎないかもしれないが、多くの人々は自分でも意識しないうちに選択設計者であることがあらわになる。候補を選ぶのに無記名投票の利用を立案するなら、選択設計者だ。患者に実施可能な代替医療の説明をしないといけない医師なら、選択設計者だ。会社の健康保険に新規被雇用者が加入するために記入する書類を作るなら、選択設計者だ。自分の子供に、受けることの出来る教育の選択肢を説明するなら、選択設計者だ。営業職なら選択設計者だ(これは気づいてそうだけど)
 選択の設計と、伝統的な形での設計との間には多くの違いがある。とても重要な違いは「中立的なデザイン」など存在しないということだ。学術施設の設計の作業について考えよう。施設の設計はいろいろと要件がある。120の研究室があって、教室8部屋、12の学生控え室、等等。建物は特定の場所に建てられないといけない。ものすごく沢山の他の条件が反映されるだろう、法的なもの、美学的なもの、実用面のものだ。最終的に設計はドア、階段、窓、廊下をもった具体的な建築物として出来てくる。優秀な建築家は分かっていることだが、トイレの配置のような恣意的に決められているように見えるものが、建物を使う人達の相互作用の有り様に影響を与えるのだ。トイレに行く度に同僚と出くわす機会ができる(良いか悪いかはともかく)。良い建築は単に魅力的なだけではない。「ちゃんと機能する」のだ。
 これから見ていくように、小さくて明らかにとるにたらなさそうなものが人々の行動に大きく影響することがある。良い経験則は万事うまくいくようにしてくれるものである。多くの場合、こういった細部に宿る力は、特定の方向に利用者の注意を向かわせることから生じる。この原理の凄い例は、アムステルダムスキポール空港の男性用トイレにある。関係部門が小便器の中に黒い蠅を描いたのだ。男性は自分が狙うところをあんまり注意することがなくてちょっと汚してしまうことがあるのだが、目標を目に入れて注意を払うととっても狙いが良くなる。思いついた人によると、すんごくうまくいっているようだ。「狙いが良くなっている」アード・キーブームが言う。「男性は蠅を見たら狙うんだよね」キーブームはスキポール空港の建物の拡張を監督したエコノミストだ。彼のスタッフが便器の蠅の試験をやってみて、飛び散りが80%も減少することがわかった。
 「万事うまくいく」ような洞察は時に状況を台無しにも力をつけてくれもする。優秀な建築家は自分が完璧な建物を造れないことをわきまえていて、有益な効果をもたらすデザインを選んでいくことができる。例えば、オープンな階段の吹き抜けは仕事場の相互作用や歩く必要を生み出すし、これらはどっちも望ましいものだろう。そして建築家が特定の建物をつくらないといけないように、キャロリンみたいな選択設計者は特定の昼食時の食事の並ばせ方の選択肢を選ばなければならないし、そうすることによって彼女は人々の食事に影響を与えることができる。彼女は「ちょちょん」と押せるのだ。

新自由温情主義 Libertarian Paternalism

 いろいろと検討してみて、キャロリンが子供達にとって良い食事に向けてちょちょんと押してあげる機会、1:を利用すべきだと思うなら、著者達の新たな運動、「新自由主義的温情主義」(訳者注:以下新自由温情主義)へ歓迎しよう。著者達はこの用語が読者にすぐに愛着をもたれるようなものではないのは重々承知している。新自由主義と温情主義という2つの単語はなんだかかたくるしいし、一般受けはよくないし、多くの人に受け入れられそうにない政治的見解でもある。さらに悪いことには、これらの概念は矛盾しているように見える。どうして二つの評判のよろしくない矛盾した概念を組み合わせるのか?これらの用語がちゃんと理解されれば、両方の概念が常識を反映していることや,ばらばらにいるよりは一緒に混ぜた方がより魅力的になることを論じよう。この用語の問題は教条主義者に取り押さえられてしまっていることだ。
 著者達の戦略の新自由主義的な面は、一般的に人は自分が好むことをする自由があるし、望むのであれば望ましくない選択も選ぶ自由があるという一貫した主張にある。故ミルトン・フリードマンの言葉を借りると新自由主義的温情主義者は「選択の自由」を人は持つべきであると要求する。我々は選択の自由を維持し、大きくするために頑張る。温情主義という言葉をやわらげるのに新自由主義という言葉を用いる時は、単に自由を維持するという意味で用いる。新自由温情主義者は人々に自分の道を歩んでもらいたいし、自分の自由を行使しようとする人に負担をかけるようなまねはしたくない。
 温情主義的な面は、選択設計者が人々の人生をより長くより健康により良くするために、人々の行動に影響を与えようとすることが正当なことであると主張することにある。言い換えれば、人生を向上させるような方向に人々の選択を向けようとする、民間の団体や政府による意識的な努力を肯定するものである。著者達の理解では、本人にとって良い結果をもたらすような選択をさせようと影響することを温情主義的であるとする。社会科学で発達してきた知見によれば、多くの場面で、我々個人はかなりわるい決定ー完全に注意を払い、あらゆる情報を持ち、無限の認識能力があり、完璧な自己コントロールができるなら絶対にしないような決定ーをすることが知られている。
 選択肢をブロックしたり囲い込んだりきっちり負荷をかけたりすることはなく、新自由温情主義は比較的弱く柔軟で押し付けがましくない温情主義である。煙草を吸う、沢山キャンディーを食べる、不釣り合いな生命保険を選ぶ、引退後への貯蓄をちゃんとしない、なんてことを誰か望んでも新自由温情主義者は無理矢理他のことをさせようとはしないし、本人にとってもっと状況を厳しくしたりもする。それでも、我々が推奨するアプローチがきっちり温情主義的に機能するのは、私的であれ公的であれ選択設計者が、単に決まった進路を歩ませようとしたり望ましい選択肢を実行させようとするからではない。むしろ、意識的に人々を、人生をよりよくするような方向に向かわせようと試みるのだ。「ちょちょん」と押すのだ。
 私たちのこれからの用法において、「ちょちょん」とは、何か特定の禁止を設けることも、大きく経済的な動機を変えることも無く、予見可能な状態で人々の行動を変化させるような選択設計の相を指す。ちょっとした「ちょちょん」であれば、避けるのも簡単でコストもかからない。「ちょちょん」は命令ではない。果物を目の高さに置くことは「ちょちょん」として機能している。ジャンクフード禁止はそうではない。
 著者達が推奨する方針の多くは、(政府からの「ちょちょん」の有無によらず)民間部門で実行可能だし、実行されてきている。例えば雇用する側は我々がこの本の中で論じる多くの例において重要な選択設計者だ。医療保険や定年への備えといった分野で雇用者は被雇用者にちょっとした手助けとなる「ちょちょん」ができるはずだ。お金も欲しいし、良いこともしたい民間企業が環境的な「ちょちょん」で大気汚染や温室効果ガス排出の減少を助けて利益を得ることだって出来うる。だが、これから民間部門への新自由温情主義を正当化するようなところを同じように政府部門にあてはめていくとこを見ていこう。

ニンゲンとケーザイジン:なんで「ちょちょん」が役に立つのか。

 温情主義を否定する人達はよく、人は凄い決断を下すし、凄くないにせよ他の誰か(特に政府のお役人とか)よりは良い決断をするという主張をする。
経済学を勉強したことがあるかどうかはさておき、多くの人は暗黙のうちにホモエコノミクス、経済人…我々一人一人が過つことねく考えたり選んだりして、経済学者の設定する人間の教科書像にあてはまるような…という概念に委ねている。
 もし経済学の教科書を見れば、経済人はアインシュタインのように思考できるし、IBMビッグブルー並みに記憶できるし、ガンディーのように意志を実行できるということがわかるだろう。本当だよ。しかし私たちが知っているような人間てのはそんなんじゃない。計算機が無いと割り算に手間取るし、配偶者の誕生日を忘れるし、正月に二日酔いになりもする。経済人ではなく、これこそがヒトてやつだ。ラテン語なホモエコノミクスという言葉の使用は最小限にして、ここから想像上と実在の人達のことをケーザイジンとニンゲンと呼ぶことにしよう。 
 肥満について考えよう。アメリカでの肥満の割合は20%に到達し、60%以上のアメリカ人が肥満か太り気味とされている。肥満は、よく早死ににつながる心臓病や糖尿病のリスクを上げることが明らかとなっている。みんながまともなものを食べているとか、ちょっと「ちょちょん」とされてたどり着くようなものよりもましなものを食べていると考えるとしたら、本当に妄想じみている。
 もちろん、ちゃんと考えているような人達は健康だけでなくて味にもこだわっていて、食事が悦びの一部になっていたり、そのものになったりするわけだ。著者達は肥満の人達みんなが理性的にふるまうのに必然的に失敗しているなんていうつもりもないが、全てのもしくはほぼ全てのアメリカ人が最適な食事を選んでいるというのは強く否定する。食事にあてはまることは、他の喫煙や飲酒といったリスクにまつわる行動にもあてはまり、毎年50万人もの人が早死にしている。食事や喫煙や飲酒についてみると、人々の現在の選択は人生をより豊かにするベストの方法であるということはできない。実際、多くの喫煙者、飲酒者、つい食べ過ぎる人たちはよりよい選択をする手助けをしてくれるような第3者にお金をはらってもいいと思っている。
 だが、我々のここでの基本的な情報源は過去40年にわたる社会科学者達の慎重な研究からなる、意思決定の科学である。この研究は、人々が行う多くの判断や決定の合理性について深い問いを生み出してきている。ケーザイジンたろうとするときに、完全に予測を立てることは要求(されるとしたら全知全能な存在だろう)されないが、偏りの無い予想を立てることが要求される。つまり、予想は外れうるが、予想可能な方向で系統的に外れるということはない。ケーザイジンと違い、ニンゲンは過つものである。例として計画錯誤ー計画を終わらせるのにかかる時間に対して非現実的なまでの楽観主義を持つ傾向ーをとりあげよう。建築業者を呼んだことがある人なら誰しも、こういうった錯誤があるのを知っていても、自分が思ったよりもいろんなことが時間がかかるのが分かるだろう。
 数多の研究からは人の予想は瑕疵や偏りがあることがわかる。ニンゲンが何か決めるということはすごいことでもなんでもない。再度一例を取り上げるが、惰性についた呼び名のいわゆる「現状維持バイアス」を考えてみよう。我々がこれから述べていくような多くの理由で、人々は現状維持や特に選択しないで生じる条件の下にやっていこうとする強い傾向がある。
 例えば新しい携帯電話を買うと、いろいろと選ばないといけないことがある。凝った携帯になればなるほど、電話が鳴っている時の画面表示から、留守番電話に切り替わるまでの呼び出し音のなる時間といったような選択に迫られることになる。製造側はさまざまな選択に対して初期設定を1つ割り当てている。ある研究からは、初期設定がどんなものであれ、多くの人々は着信音を選ぶのがコストがかかるとしても多くの人々がそのままにしておくのにこだわることが分かっている。
 この研究からは二つの大事なことが学べる。1つ目。惰性の持つ力をみくびるな。2つ目。この力は利用することができる。もし会社や公的機関が、ある方法がより良い結果を生み出すと考えるなら、その方法を基準の選択肢にしてしまうことで、結果に大きな影響を与えられる。これから見ていくように、基準の選択肢や、他にもちょっとしたメニューの変更といった似たような戦略は、貯金を増やすなんてことから、より良い医療保険の選択や臓器移植を増やすといったような事柄までの結果に大きく影響しうる。

 うまく調節された基準の選択の効果は「ちょちょん」の優しい力の説明になる。著者達の定義に従えば、「ちょちょん」はケーザイジンには無視されるとしても、ニンゲンの行動を明らかに変化させうる要素のことである。ケーザイジンは主としてインセンティブ反応する。もしも政府がキャンディーに税金をかけたら、ケーザイジンは買う量を減らすだろうが、例えば選択肢を見せられる順番といった「関連しなそうな」要素には影響を受けることは無い。ニンゲンはインセンティブに反応するし、「ちょちょん」にも影響を受ける。ちゃんとインセンティブと「ちょちょん」を配置していけば、みんなの生活を改善するための能力を向上できるし、社会のいろんな大問題の解決を助けることだってできる。そうして、皆の選択の自由を尊重しながらこうすることができるのだ。

著者注:すぐ気づくとは思うけど、インセンティブはいろんな形である。フルーツを目の高さに置いて、キャンディーを見つけにくいところに置くような、認識する努力を増加させる方法が用いられるとすると、これはキャンディーを選ぶためのコストが増えたということができるかもしれない。我々の「ちょちょん」にはある意味で(物質的というより)認知系のコストを高めたり、同じような意味でインセンティブを変化させたりする。いろんなコストが低い場合に限り、「ちょちょん」はこんなふうに働くし、新自由温情主義は容認される。

1つの誤った仮定と2つの誤解と

 選択の自由に賛成する多くの人々は、あらゆる種類の温情主義を否定する。市民自身が自分で決定できるように政府にはしてもらいたいのだ。こうした考え方から出てくる一般的な方針の助言とは、人々に出来るだけ多くの選択肢を与えて、その中から自信が一番気に入るものを選ばせる、(政府からの干渉も「ちょちょん」もできるだけなしで)ことである。この思考方法の美点は、多くの複雑な問題に簡単な解決を与えることにある。とにかく選択肢の種類や数を増やしてしまえばいいー、はいここでストップ。こういった考え方は教育から処方薬保険プランまで、多くの領域で押し付けられている。とにかく選択肢を増やせというのは政治でのお題目となっている。このお題目の唯一替わりになるのが、「なんにでもあてはめられるフリーサイズ」とネタにされるような政令だとされるときもある。とにかく選択の幅や数を増やすのが好きな人たちは、自分たちの方針と1つの法令との間には大きな間隙があることを分かっていない。彼らは温情主義に反対するか自分がやることを考えて、「ちょちょん」に対しては懐疑的である。著者達は彼らの懐疑は間違った仮定と2つの誤解からなっていると信じている。
 間違った仮定というものは、殆どの人々はいつでも自分達にとって最も利益になるような選択をするし、他の誰かがやるよりも悪い選択をするということは決してないというものだ。著者達はこの仮定は間違いであり、もうほんとにどうしょうもなく間違いだと主張する。実際、私たちはそんなことを熟考して信じているなどとは考えていない。
 チェス初心者が経験者とチェスを指すところを想定しよう。初心者はちゃんとヒントを出してもらえれば改善できるような、誤った手を指すことで負けてしまうのが予想できる。多くの場面で、普通の消費者たちは初心者で、ものを売りつけようと手ぐすね引いてる経験豊富なプロのいる世界で相互作用しあっている。もっと一般的な話にすると、人がどうやってうまく選択をするのかというのは経験や観察に頼る命題であり、その答は領域ごとにばらばらになりがちなものである。経験があって、ちゃんと情報もあって、すぐに反応も得られるような状況なら、良い選択ができるくらいのことは言ってもいいかもしれない、アイスの味を選ぶときとか。チョコやバニラにコーヒー、甘草、それから…と自分の好き嫌いは分かっている。一方で、経験していなくて情報もあまりなく、反応も遅かったりたまにしかやってこなかったりするような時にはあまりうまい選択をしない。果物とアイスのどっちにするか(長期的な効果はあとからあまりよろしくないものとしてやってくる)とか治療方法をどれにしようかとか投資先をどれにしようかといったような時である。
複数で様々に異なる要素つきで、50もの処方箋薬プランが与えられるような時には、ちょっとした援助でより良い結果にたどり着けるかもしれない。人々が完璧に選択をしているわけではないときには、選択設計の変化が人々の生活をよりよいものに(自分達の選好からいうのであって、官僚のだれかがきめるのではない)できる。これから見ていくように、人々の生活をより良いものにするために選択設計をデザインするのは「可能である」というレベルなだけでなく、多くの場合はむしろ簡単なことなのだ。
 誤解の1つ目は、人々の選択に影響するのを避けるのが可能であるということだ。多くの場合、組織や職員は他の人達の行動に影響をあたる決定をしなければならない。こういった場合に、何らかの方向性で「ちょちょん」としてやらないで済む方法はないし、意図するとせざるとに関わらずこれらの「ちょちょん」は人々が決めることに影響を及ぼしてしまう。キャロリンのカフェテリアの例で描かれたように、人々の選択は、選択設計者に選ばれた設計の要素が染みわたるようにして影響を受けてしまう。もちろん、意図されないような「ちょちょん」だってある。何か「ちょちょん」としてやろうなんて思うこともなく月ごとか2週間ごとかで給料を支払うことを経営者が決めるが、一年のうちで三回給与支払いがある月が二回あるおかげで、より貯金するなんてことを見つけると驚くかもしれない。民間でも公的機関でも、例えばランダムに選んだり、大部分の人が欲しがるものが何かを探り当てようとしたりといったような中立性を求めて努力している。しかし、意図せざる「ちょちょん」は大きな効果を持ち得て、こういった中立性が望ましくない時もあって、多くの例を見ていくことになるだろう。
 民間機関がやるのには同意しても、政府が人々の生活をより良くする目標に向けて選択に影響を及ぼそうと努力するのに反対する人達もいるだろう。政府が寛容であろうとすると支持をえられないことを心配している。選挙で選ばれた人達や官僚が自分たちの利益に主眼をおいたり、特定集団の利益に注意をむけたりするのを怖れるのだ。我々もこういう視点を共有する。特に、我々は、政府に関して失敗やバイアス、やりすぎのリスクが現実にあって、時に深刻になることに強く同意する。それで、「ちょちょん」が命令や要求、禁止よりもいいなと思う場面がある。でも、政府は、カフェテリアと同じように(そういやよく政府もカフェテリア運営するよな)は基準をつくらないといけない。これを避けることはできない。我々が強調していくように、立法を通じて選択や結果に影響を必然的に及ぼすやり方で毎日やっていることだ。この点について、「反ちょちょん」な立場はどうしようもない、見込みがない。
 二つ目の誤解は、温情主義には常に強制がともなうということだ。カフェテリアの例でいけば、食べ物を提供するとこでの指示の選択は、誰にも特定の食べ物を強要してはいないが、キャロリンや同じような仕事の人が、私たちがいう意味での温情主義をもとにして食事の構成を選ぶかもしれない。小学校のカフェテリアでデザートの前に果物やサラダをおいて、子どもたちによりリンゴを食べさせて、お菓子を少なくさせる結果になるとして、誰が反対するだろう?もし相手にするのが青少年とか大人だったりすると、根本的に異なるような問題だろうか?強制が含まれてなければ、選択の自由をいっつも主張しているような人達にでも、ある種の温情主義は受け入れられるだろう。
 貯金、臓器移植、結婚や医療保険といろいろ多岐にわたる領域で、私たちの一般的なアプローチに沿った独特の提案をしていこう。そして、選択を制限しないままでいることを主張することで、不具合だったり破綻していたりするようなデザインのリスクを低減できるだろうと考えている。選択の自由はダメな選択設計に対しての最良の安全弁なのだ。

実践としての選択設計

 選択設計者たちはユーザーフレンドリーな環境をつくることで、他の人達の生活を大きく向上させることができる。実際そうやって、すごくうまくいってる会社の多くは人助けをしているとか、市場で成功しているとかしているのだ。 選択設計がしっかり可視化されていて消費者や経営者がよろこぶようなこともある。(iPhoneiPodは、見た目のデザインが良いだけでなく、自分がやりたいことをするための道具を手に入れるのがユーザーにとってやりやすくて、この良い例にあたる)時に設計が当然のものとみなされて、ちょっとした注意から利益をもたらすことがある。
 著者たちの雇い主のシカゴ大学の場合についてみてみよう。他の大雇用主と同様に、被雇用者が医療保険や退職金の積み立てに関して決めたことの更新をできる期間を毎年11月に設けている。被雇用者はオンラインで選択するように求められている。(インターネットが使えないような人のために、共用のコンピューターを使うこともできる)被雇用者は郵便で、選択肢と選択するためのログイン方法の説明が入った封筒を受け取る。また、郵便とメールでも通知を受ける。
 被雇用者はニンゲンなので、ログインしないものもいて、忙しかったり忘れっぽかったりする人達向けの初期設定をどうするかを決めるのは重要になる。単純化すると、二つの方法を考えてみればいいだろう。自分で選択しなかった人には前年と同じ選択をしたものとするか、何もない状態にするかである。昨年、被雇用者のジャネットが退職金に1000ドルの積み立てを行ったことにしよう。もし今回特になにもしなかった場合には、二つの規定の選択肢がありうる。ひとつは1000ドルの積み立て、もうひとつは積み立て0である。これらを「現状維持選択」「ゼロ選択」と呼ぼう。選択設計者はこれらの規定からどう選択を行うべきだろうか。
 新自由温情主義者は、ジャネットの役職にいる思慮深い職員が実際に何を望んでいるのかを尋ねて初期設定を行いたがるだろう。この方針でやっていくと、いつもはっきりとした選択が行われるわけではないが、初期設定をランダムに決定したり、全部を「現状維持」か「ゼロ選択」にするのよりはましだろう。例えば、殆どの労働者は手厚く保護される医療保険を解約したいとは思わないだろう。こういう場合には「現状維持」(前年と同じ)は強く「ゼロ選択」(医療保険なしでやっていく)よりも好まれる。
 今度は、被雇用者が毎月特定の目的(保険適用にならない医療や保育料など)の決済用にお金をとっておく、額可変な決済口座と比べてみよう。この口座のお金はそれぞれの年で費やされねばならず、そうでなければ失われる。また、予想されるような支出額はある年と次の年とで大きく異なる場合がある(例えば、保育料は子どもが学校に入ると減るだろう)こういう場合には、「ゼロ選択」は「現状維持選択」よりも大分意味があるだろう。
 この問題は単なる仮定のものではない。我々はかつて似たような問題について話し合いをするために、大学の事務方のトップ3人と会議を行うことになっており、契約の更新期間の最終日に開かれる予定だった。我々は最終日だということを指摘し、締切を守るつもりがあったか尋ねてみた。一人はその日の遅くに予定を入れていて、我々の注意に喜び、一人は完全に忘れていたといい、最後の一人は妻がやってくれているといいなあといった。そして補助的な給与控除プログラム(節税のための積み立て計画)の初期設定をどうすべきかという話題になった。それに関しては「ゼロ選択」が選ばれていた。だが、このプログラムでの積み立てはいつでも止められることから、出席者の満場一致で、前年と同じようにする「現状維持」がよいだろうということになった。結果として、多くの忘れっぽい教授たちが快適な引退生活をするだろうという自信がある。
 この例からは良い選択設計の根本原理が示される。選択するのはニンゲンであり、設計する側は、できるだけ生活を簡単にしてあげること。思い出させるような注意を送り、どれだけ頑張ってみてもぼんやり忘れてしまうような人へ注意を払うコストを最小限にすること。これから見ていくように、これらの原理(だけでなくもっとあるだろうが)は公私どちらの部門でも採用されうるし、今行われていることよりももっと良くなる余地はある。

新しい道

 これから、私的な「ちょちょん」についてしっかり述べていく。しかし、新自由温情主義のいちばん大事な適用先の多くは政府へ向けたものであり、行政や立法への多くの推奨をおこなうだろう。我々はこういった推奨が共和党にも民主党にも伝わることを望む。実際、我々は新自由温情主義によって提唱される政策が二つの党のどちらにも受け入れられると信じている。主な理由としては、政治的なコストがほとんどかからないか、ないからである。納税者たちに負担を強いることは無い。
 多くの共和党員は政府の行動への単純な反対を乗り越えるようなことを求めている。ハリケーンカトリーナの体験から分かるように、政府は必要な資源を招集し、組織し、配置する唯一の手段であるため、政府は活動することを要求されることがよくある。共和党は多くの人々の生活をより良くしたがっている。人々の選択肢をつぶしていくことに対して、単に懐疑的なだけなのだ。
 こういった部分で民主党は積極的な政府の計画に対して冷めているものである。賢い民主党員は公的部門は皆の生活を向上しうることを望むだろう。しかし多くの分野で、選択の自由がよいものであり、公益のために欠かすことが出来ない土台であることを認めてきている。党派争いでの橋渡しをするための現実的な根本原理がここにある。
 新自由温情主義は二大政党制でうまくいく基盤となるだろうと我々は考える。環境保護家族法、学校選択、といった多くの分野において。より良い統治には、政府の強制や束縛はより少なく、選択の自由はより多く必要であることを論じる。もし動機付けと「ちょちょん」が要求と禁止に取って代わるなら、政府はより小さく、より謙虚になるだろう。はっきりさせておきたいが、我々は、大きい政府に賛成なのではなく、より良い統治に同意しているだけなのだ。
 実際我々は、我々の楽観主義が単なる能天気な考え以上のものである証拠がある。貯蓄に関して6章で議論されるように、新自由温情主義は熱狂的に幅広い層に、現職や元職の保守的な共和党上院議員のロバート・ベネット(ユタ選出)やリック・サントラムペンシルバニア選出)、リベラルな民主党ラウム・エマニュエル(イリノイ選出)までを含む二大政党のからの支持を議会で受けた。2006年に鍵となるアイデアのいくつかは法律にそっと盛り込まれた。新しい法律は多くのアメリカ人に、より快適な引退生活をもたらすだろうが、納税者の金銭的な負担はほとんどないのだ。
 まとめると、新自由温情主義は左でも右でもなく、民主党でも共和党でもない。多くの場面で、ほとんどのちゃんと考えている民主党員は選択肢を潰すような熱意を押さえ込んでいる。多くの場面で、ほとんどのちゃんとした共和党員は保守的な政府主導の政策への脊髄反射的な反対を捨象している。こういった両者の違いの全てにおいて、両者がちょっとした丁寧な「ちょちょん」の助けを借りて、一致できるようになろうとすることを我々は望むものである。