序文

 社会のネットワークは美しく入り組んでいるものだ。とても精巧にできていて、とても複雑で、どこにでもあって、どんな目的のために動いているのかと思ってしまう。なんで我々はそこに埋め込まれているのか?どうやって形作っているのか?どうやって働いているのか?どうやって我々に影響するのか?
 私(ニコラス)はここ十年の大半、これらの問に惹かれてきた。私はまず、全ての社会ネットワークのなかで最も単純なものに興味をもって、とりくみはじめた。二人組。まず、最初に研究しだした二人組は夫と妻だった。末期の病の患者とその家族を相手にする医師として、愛する者の死がその配偶者へも深刻な影響をおよぼすことに気がついた。そして、一人の病が別の人へどのように病を生じさせるのかを興味をもつようになった。私には、もし人が互いにつながっているのなら、その健康の状態もつながるのではないかと思えたからだ。もし妻が病気になったり死んだりしたら、夫の死のリスクは確実に上がるのだ。その後、私が研究するのは、あらゆる二人組、つまり兄弟姉妹、友人同士、裏庭のフェンス越しに(分かたれているのではなく)つながっているご近所同士、なんだと意識するようになった。
 しかし問の知的な核心部分は今みたいに単純にならべることなんかではない。主に意識するようになったのは、こういった二人組同士がかたまってすごく離れた組み合わせにまで大きい網の目状を形成することだった。ある男性には妻がいて、その妻には最良の友人がいて、その最良の友人には同僚がいて、その同僚には兄弟がいて、その兄弟には友人がいて…というように。これらのつながりの枝分かれは、イナズマのように、人間社会全体を貫いて複雑な形をつくっているのだ。その状態は、それが見えるのよりもはるかに込み入っているものなのだ。社会ネットワークの中で、ある個人を取り出してみて、そこから一人一人動いていく度に、そこにつながる他の人達の人数や枝分かれの複雑さは加速度的に増えていくのだ。この問題について考えていたときに、私は、20世紀の変わり目のドイツの学者から、1970年代の先見の明のある学者までが、3人から30人の幅の社会ネットワークについて研究していた、他の社会科学者達の研究を読んだ。しかし、私の社会ネットワークに関する関心は3000とか30000、場合によっては300万人のものなのだ。
 私はこれくらい複雑な事象を研究するときには、共同研究者がいるほうが効率が良いことがわかった。そして、やはりハーバードにいたジェイムズ・フォウラーが全く異なる観点からネットワークを研究していたことがわかった。ジェイムズと私は同じキャンパス内の近くの建物で何年も働いていたのだが、知り合いではなかった。2002年に共通の同僚である、政治科学者のゲーリー・キングに引き合わされた。違う言い方をしておくと、友人の友人として、関係が始まったのだ。ゲーリーは、私たちが共通の知的関心があると思っていて、彼は正しかった。我々が社会ネットワークのおかげで出会ったという事自体が、社会ネットワークが如何に何故機能して、どうやって我々に利益をもたらすかについて、主に述べたいと思うことを描いてくれている。
 ジェイムスは何年も、人々の政治的な信念のもとを研究してきていて、人が社会的や政治的な問題を解決しようとする試みが、どのように他者に影響するかを調査もしていた。人ひとりが自分だけでは出来ないことを達成するために、人々はどうやって集まるんだろうか?そしてこの話で大事な鍵となる他の話題についても同じ関心を持っていた。利他主義と善意、この両方が社会ネットワークを大きくして丈夫にするのに欠かせないということだ。
 一緒に私たちは、膨大な社会ネットワークの中で人がつながっているということを考えだして、社会的な影響は我々が知っている人にだけ及ぼして終りということではないということがわかってきた。もし友人に影響を与えて、この友人がさらに別の友人に影響をあたえたら、人の行動は、会ったこともない人達に影響を及ぼしうるのだ。我々はまず様々な健康に関する影響の研究から開始した。我々は、もし友人の友人の友人が太ったら、自分も太るということを発見した。友人の友人の友人が禁煙したら、自分も禁煙するだろうということもわかった。そして、友人の友人の友人が幸せならば、自分も幸せになるのだ。
 ついに、社会ネットワークの形成と機能の両方を支配する根本の原理があることもわかった。もしネットワークの機能を研究するなら、そのネットワークがどうやって組み合わさって出来ているのかも理解しないといけないのもわかった。例えば、人はだれとでも友人になれるわけではない。地理的、社会経済的な状態、技術、遺伝子などによっても、社会的な関係を築き、それをどれくらいの数もてるのか、人は制限を受ける。人を理解するための鍵は人をつなげているものを理解することにある。それで、私たちは対象をつなげているものに移した。
 こういった話題への関心は、ここ十年でネットワークに関する数学や科学を発展させてきた多くの他の学者達と並走している。人のつながりを研究しだすと、私たちは発電所のネットワークを研究する工学者、神経ネットワークを研究する神経科学者、遺伝子ネットワークを研究する遺伝学者、ほとんどのもののネットワークを研究する物理学者、に出会ってきた。この人達のネットワークだって、魅力はあるが、私たちのものの方がもっと面白いと思う。もっと複雑でもっと大事なものなんだと。結局、我々のネットワークでの結び目は人間を考えることだ。人間は、ネットワークに組み込まれて影響をうけていながらも、ネットワークを変えようと決断することができる。人間のネットワークはそれ自体が特殊な生命をもっている。
 科学者たちがネットワークのそれ自体の美しさや説明する能力に関心があるように、一般の人々も同じことについて考える。これは各家庭へのインターネットの出現のおかげで、人々に多くのものごとがつながっているという考えを持たせるようになった。人々の日常会話の中には「ネット」が登場しだし、「ワールドワイドウェブ」までも出てくる。(大ヒットした映画のマトリックスもいうまでもない)そして、自分がコンピューターと同じように、つながっているということを実感しだしたのだ。これらのつながりは、今日FacebookMyspaceのようなSNSのサイトに皆なじみがあるという点において、明らかに社会的なものになっている。
 私たちが社会ネットワークをより深く研究するにつれて、我々は人々の超有機体の一つとして考えるようになった。成長するし、進化もする。あらゆる物事がその中を流動していくのだ。この超有機体はそれ自体が構造と機能をもち、その両方を解明しなければと私たちは取り憑かれるようになった。
 我々を超有機体の部分であるとみなすことで、我々の活動や選択、経験を新しい観点からみることができるようになる。もし我々が社会ネットワークに埋め込まれることに影響を受け、すごく近しかったり逆に離れていたりする人に干渉されるとしたら、我々は必然的に自分の判断への自分の力を失うことになる。自分の近所の知り合いや見知らぬ人が倫理的に響きがつながったり社会的に反響しあったりする行動や結果に影響すると意識するときに、このようなコントロールを失うことは特に強い反応を引き起こしうる。しかしこれを意識することの裏側は、人々が自分自身やその限界を超えうるということなのだ。この本の中では、私たちは、我々のつながりは我々の人生において自然で必要な部分であるということだけでなく、世の中を良くしようとする力でもあるということを論じる。脳が、一つの神経だけではできないことをやれるように、社会ネットワークも個人ができないことをやってみせるのだ。
 何十年も、いや何世紀にもわたって、人が生きるか死ぬか、金持ちになるか貧乏になるか、振る舞いが公正か否か、というような人間の大事な問題は個人対共同体に関する議論に還元されてきた。科学者、哲学者、社会を研究する人たちは一般的に二つの集団に分けられてきた。個人は自分の運命を支配できると考える人たちと、社会の力(良質の公教育の欠如から破綻した政府の存在までいろいろあるが)は我々に起きることに責任があると考える人たちとである。
 しかし、私たちはこの議論には第三の要素が欠けていると思う。我々の研究や人生に関する(人に会うとか結婚相手に出会うとか、末期の患者のケアをすることや貧しい村にトイレを作ることとか)多様な実験をもとにして、私たちは我々の他者とのつながりは一番大事ということと、個々人に関する研究を集団の研究にリンクさせることで、社会ネットワークの科学は人々の経験することについての多くを説明してくれることとを信じている。この本は我々の他者とのつながりと、つながりがどうやって感情やセックス、健康、政治、金銭、進化、技術に影響するのかに焦点を置いている。でもほとんどは、我々を個性的な人間たらしめているものについてだ。我々が何者なのかを知ることで、我々がどうつながっているかを理解しないといけない。

Connected 1 in the thick of it

 1840年代のコルシカのレヴィの山村で、アントン−クラウディオ・ペレッティは彼の妻マリア−アンジェリナが自分以外の男と関係をもち、さらに悪いことには自分たちの娘が彼の子ではないと信じ込んだ。マリアはアントンに別れることを告げて、彼女の兄弟のコルトとその準備をした。その日の午後に、アントンは自分の妻と娘を撃ち殺し、山に逃亡した。遺されたコルトはとにかくアントンを殺したかったが、見つけられなかった。その地域の住民には合理的に思えるようなちょっとした暴力の応酬として、代わりにコルトはアントンの兄弟のフランチェスコと甥のアリストテロを殺した。
 話はここで終わらない。5年後に故アリストテロの兄弟のジャコモは彼の兄弟と父の死の復讐としてコルトの兄弟を殺した。ジャコモはコルトの父も殺したかったのだが、すでに自然死しており、ジャコモは満足できなかった。この死の連鎖において、ジャコモとコルトの兄弟はつながっていて、こんな具合だ。ジャコモはフランチェスコの息子で、フランチェスコはアントンの兄弟で、アントンが結婚したのはマリアで、マリアはコルトの姉妹で、コルトの兄弟がジャコモの殺意に満ちた怒りの標的となった。
このような行動は歴史や地理的に離れた場所でもあることだ。他のもう少し、近い例をだしてみよう。ミズーリ州セントルイスの2002年の晩春に、ストリップダンサーのキミーは忙しかった時に友達と稼いだ900ドルが入った財布を置き忘れた。彼女が取り戻しに戻ったときには財布と友達は消えていた。しかし一週間後、キミーのいとこは財布泥棒の相方を地元の店で見つけて、キミーを呼び出した。キミーは金属のポールをもって駆けつけた。彼女は以前の友人の友人をひどく殴りつけた。その後誇らしげに彼女は「アイツの相方のケツをぶっとばしてやって、ワタシができるうちで、おアイコにするのに一番いいことやってやったね」と述べた。
 これらのケースでは考えさせられてしまう。結局、アントンの兄弟や従兄弟、キミーの友人の友人は関係があったのか?事件に関与していない人を傷つけるとか殺すとかするのはいったいどんな意味があるのだろうか?容認し難いような死に至る暴力によるものだとしても、一週間や5年後といったこれらの行動にはどんな意味があるのだろうか?どう説明できるだろう?
 我々はこういう事件を、アパラチアでの抗争のような奇妙なものだとか、シーア派スンニ派の部族抗争、北アイルランドでの暴力の連鎖、アメリカの都市でのギャングの抗争みらいな時代遅れと考えがちだ。しかしこの残忍な論理には古くからのルーツがあるのだ。復讐しようとする動きが古いとか、このような暴力が集団の結束(「わしらハットフィールド家じゃ、マッコイ一家は許せん」)を説明できるとかいうことではなく、暴力の小さくて極端な形態のものが社会のつながりを通じて広がっていくことや、アフリカのサバンナで人類が出現したころから行われてきたことだということだ。暴力は直接的な方法(加害者に復讐する)、または包括的な方法(抗争に関係ない近くの人を傷つける)で広がる。しかし、どちらにせよ、一つの殺人が多くの殺人の連鎖を生み出しうるのだ。攻撃が開始地点から広がっていくもので、バーの喧嘩が、一人が殴りつけたら、屈んでよけて別の人に当たり、そこら中でパンチが飛び合うように。(攻撃性が開放される様子について深く根付いた観念をうまく再現してしまうので陳腐な表現になってしまっているが)ときにこうした暴力の多発は地中海の村だったり郊外のギャングだったりで数十年にわたることだってある。
 暴力の連鎖の背景に存在する、集団単位での犯罪や復讐と行った考えは、我々が責任というものは個人に属するものであると考えるときには奇妙なものに思われる。しかし、多くの場面において、道徳は個人にあるのではなく、共同体の中にあるものだ。そして集団での暴力性へのさらなる手がかりとなるのは、それが個人的な現象ではなく、世間での現象となりがちなことである。米国での個人間の暴力の3分の2は第三者に目撃されているし、この割合は若者の間の場合では4分の3に近づく。これらの観察があると、対人の暴力の広がりは驚くことにあたらない。よく言われるような「友の友はまた、友なり」「敵の敵は友」とおなじように、自分の敵の友人は敵なのである。これらの警句には、敵意や好意に関する真実が内包されているが、我々の人間性の根本的な様相についても伝えてくれるのだ。我々のつながりについて。ジャコモとキミーは一人で行動しただけなのだが、彼らの振るまいは、いかにたやすく責任やら義務やらが人から人へさらに別の人へと社会的なつながりを通して広がっていくのかを示してくれる。
 実際、最初のステップ、つまり最初の人間からその相手がわかれば、我々の社会の暴力のほとんどを説明できてしまうので、暴力が広がっていく複雑な経路を探索する必要すらないのだ。暴力を説明しようとするときに、単に犯人ー犯人の考え方や引き金の指ーだけに注目するのは近視眼的なものだ、というのも殺人が見知らぬもの同士の偶然の犯行であることはほとんどないからだ。アメリカでは殺人の75%は互いを知っている人たちが関与しているし、殺人前は親しいこともよくあるのだ。もしも、自分を殺すかもしれない人を知りたければ、単に自分の周囲を見渡すだけでいい。
 しかし、あなたの社会ネットワークにはあなたの命を救うかもしれない人も含まれている。「2002年3月14日、私は右の腎臓を私の親友の夫にあげました。」キャシーは、生体移植のドナーになった人たちの経験を記録していくネット上のフォーラムに書き込むことだろう。前年の夏、気の置けないおしゃべりで、キャシーは彼女の友人の夫の腎不全が悪化して、生きるためには腎臓移植が必要なことを知った。助けたいと望むだけでなく、一連の医学や心理学的な検査を受けて、自分の腎臓を提供しようとする目的に近づくにつれて、彼女はだんだんと興奮していったのだった。「その体験は私の人生でもっとも価値あるものなんです」彼女は書く。「私の最良の友人の夫を助けることができたというのは私にとってもありがたいものなんです。彼の妻は夫を取り戻しました。彼の息子達はお父さんを取り戻しました。みんなうまく収まるシチュエーションです。私たちみんなの勝利です。私は命を贈りました。」
 にたような話は多くあり、このような相手を指定しての臓器移植も、例えばスターバックスバリスタと常連というような弱いつながりしかない人たちが関与することもある。ペレッティによる殺人の連鎖にある程度似た臓器移植の連鎖も生じうるのだ。ジョン・ラヴィス、カナダのオンタリオ州ミシソーガの町の62歳の住民で、4人の子供と3人の孫がいたが、1995年に心不全で死にそうになっていた。3カ所のバイパス手術の間に心臓が機能しなくなり、一時的に人工心臓につながれた。信じられないような幸運に打たれ、8日後、彼がまさに死の瀬戸際にいたときに、提供された心臓が移植された。彼の娘は振り返る。「私たちは家族皆深く感謝しています。(父は)受け取ったのです、人生で一番大きい贈り物をー彼の命を取り戻したのです。」この体験に動機づけられて、こうして応じる行動が自分達のできることの中でも大したことじゃないと思いながら、ラヴィスの子供達は皆臓器移植カードに署名した。そして2007年、ラヴィスの息子のダンは仕事に関係した事故で亡くなった。自分の臓器を提供しようとするダンの決意は8人の人たちのためになった。彼の心臓を受け取った女性は後にラヴィス家に「新たに命を受け取った」ことを感謝する手紙を書いた。アメリカでは同年、十段階にもいたる驚くような似た連鎖が、無関係の生体間腎臓移植の提供者で生じて(明らかな医療的な調整があったのだが)、この経路で多くの命が助かった。
 社会ネットワークのつながりは、暴力と全くの対極にある恩恵を伝えることができるし、これから見ていくように、大抵は伝えているものだ。つながりは、個々人が先に行動することで、感謝を受け取っていく、利他的な行動の伝達路になりうるのだ。良い行為も悪い行為もその両方が広がる中で社会のつながりが演じる役割は、社会の問題に取り組む新しい戦略を生み出させてきている。例えば、アメリカの大都市では「暴力を妨害する人たち」の集団がある。これらの都会生活に通じた人たち、以前はギャングの一員だったこともよくあるのだが、は伝わっていく経路を壊そうとすることで、殺人を止めていこうとする。彼らは被害者のそばや、被害者や友人の家に駆けつけ、復讐を望まないように励ますのだ。彼らがたった一人を暴力をふるわないよう説得できれば、多くの命が助かるかもしれないのだ。
 我々のつながりは、日常生活のあらゆるものに影響を及ぼす。殺人や臓器移植のような頻度の低いものは氷山の一角にすぎない。我々がどう感じるか、知っていること、結婚する相手、病気になるかどうか、どれくらい稼ぐか、投票するかどうかは、我々をしばりつけているつながりにかかっている。社会ネットワークは幸福、寛容、そして愛を広げていくのだ。これらは常にそこにあり、我々の選択や思考、感情、ときには欲望にさえ、かすかにであったり劇的にであったり影響を及ぼすのだ。そして、我々のつながりは我々の知人で止まらない。我々の社会の境界を越えたところで、離れた島からこちらの岸に波が到達するように、友人の友人の友人は、最終的に我々のところにたどり着く連鎖反応を始められるのだ。

バケツリレーと電話連絡網

 あなたの家が火事だとしよう。幸運なことに、近くに川が流れている。しかし、あなたはひとりぼっちだ。川と行ったり来たりして、手に持ったバケツで燃え盛る家に次から次に大量の水をかける。不幸なことに、あなたの努力は無駄だ。手助けがなければ、燃え盛る炎に勝る早さで水を運ぶことはできないだろう。
 さて、あなたが一人じゃないとしたら。幸運にも、100人のご近所さんがいて、あなたを助けたいと思っている。そしてたまたまみんな、バケツを持っている。もしご近所さん達が十分丈夫だったら、川に行ったり来たりして、ばらばらに炎にバケツの水をかけていく。100人の人が家に水をかけてくれるのは、あなたが一人でやるのよりははるかにましだ。問題なのは、行ったり来たりするのは多くの時間の浪費になることだ。簡単に疲れてしまう人だっているだろう。他の人も統率がとれていなくて沢山水をこぼしてしまう。家に戻る道で迷うのもいる。もし皆が一人一人ばらばらに行動していたら、あなたの家はまず焼失するだろう。
 幸運にも、こうはならない。というのも、社会的な組織の独特な形状が展開されるからだ。バケツリレー。百人のご近所さん達は川から家まで一直線に並び、家に向かって水がいっぱいのバケツを渡していき、川に向かってからっぽのバケツを渡していくのだ。並んでバケツリレーを行うことは、川と行ったり来たりするための時間や労力を節約できるだけではない。歩けなかったり重いバケツを持ち運べなかったりするような人でも、役に立つことができるということでもあるのだ。100人でバケツリレーを行うことで、ばらばらに走る200人分の仕事だってできる。
 しかし、どうしてこんなふうに並んだ人たちが、同じような集団やもっと大きい集団がばらばらに動くのよりも効率的になるのだろうか?集団全体として、個々の能力の合計よりも効率が改善されるとしたら、どうやって改善されるのだろうか?どこから改善されるのはやってくるのだろう?ただ単に人を並べ替えるだけで、皆の効率が何倍も向上するのは驚くことである。人々が、一人ひとりでやるのよりも、より多くの、そしてより異なったことをできるようになる特定の配列の集団を協力してつくるとはどんなことだろうか?
 これらの疑問に答えるために、そしてお楽しみにいくまえに、すこしネットワーク理論の基本的な用語とアイデアを説明する必要がある。これらの基本的な概念は、個々のお話や、生きていく中であらゆる角度に影響する驚くべき社会ネットワークの力を私たちが調べていくようにこれから見ていくより複雑なアイデアに、舞台を設定してくれる。
 私たちはまず「人々の集団」で何を意味するのか明らかにしよう。「集団」というのは属性(例:女性、民主党員、弁護士、長距離ランナー)や私たちが逐語的に示すことができるような個人の特定の集まり(例:むこうの+コンサートへ入るのを待っている+あの人たち)を指す。社会ネットワークは全く異なる。「ネットワーク」は「集団」のように人々の集まりであるだけでなく、もっと他のことも含むのだ。集団の中の人たち同士のつながりの特有のかたち。これらのつながりや、これらのつながりの特定のパターンが個々人よりも重要なことがよくある。集団に、個々人がつながらないで集まっただけではできないようなことを達成させることができるのだ。つながりは、全体として、部分の寄せ集めよりも優れているのかを説明する。そして、つながりの特定のパターンはネットワークがどのように機能しているのかを理解するのに非常に重要である。
 家を救うバケツリレーはとても簡単な社会ネットワークである。一本線で、枝分かれはない。つまりそれぞれの人は(最初と最後の人を除くと)前と後ろで一人ずつの人とつながっている。水を長い距離運ぶのには、これは組織されるのに良い方法である。しかし百人をネットワークへと最適の組織化をするのは、取り掛かる仕事にも大きく左右される。消火のために百人を並べる最良のパターンは、たとえば、軍隊の作戦を成功させるための最良のパターンとは異なる。100人の兵士の集団は、互いに密接につながれた10人ずつの10の分隊に分けられる。
こうすることで、単に前や後ろにいる隊員だけでなく、それぞれの隊員が分隊員全員を互いによく知ることが出来る。軍隊は、部隊に対してメンバーがお互いをよく知るよう助力をおしまず、兵士が他の兵士に対して自分の命を差し出すようになるのだ。
 他の社会ネットワークも見てみよう。電話連絡網。100人に学校が休みだとすぐに伝えないといけないとしよう。現代のコミュニケーション手段やインターネット以前には、自宅から皆がアクセスできるようなごく短時間で情報を伝えるソースはなかったので、これは結構大変な仕事だった。(街の教会の鐘を鳴らすようなことが思いつくかもしれないが)そうして、みんな直接連絡する必要があった。電話はこの作業を大分楽にはしてくれたが、一人の人間で100回電話をかけるのは結構な面倒な作業であった。そして、もし、だれか電話をかけ始めても、連絡先リストの最後にたどり着くのに大分時間がかかって、学校に行ってしまったあとになったかもしれない。誰か一人に全部連絡をさせるのは非効率だし、酷い負担になってしまう。
 理論的には、一人が連鎖を引き起こせば、皆すぐに情報が伝わって一人ひとりの負担も最小で済む。一つの選択肢は、リストを作っておいて、先頭の人間が次の人間に電話をかけ、二番目の人間が三番目の人間に電話をかけ…と皆が情報を得るまでバケツリレーと同じ要領で行うことだ。これは皆の負担が同じになるが、100番目の人間にたどり着くまでに長い時間がかかってしまう。さらに、もし途中の誰かが電話がかかったときに家にいなければ、それより後のリストの人たちは情報がなく取り残されてしまう。
 他のつながりパターンの候補が電話連絡網である。最初の人は2人に電話をかけ、この2人はさらに2人にかけ、と皆連絡がつくまで続けていく。バケツリレーとは異なり、電話連絡網は情報を一度に多くの人に広げていくために構成されており、複線で連鎖反応を生じさせる。仕事量は皆で均等に割ることができるし、誰かが家にいないことで生じる問題も限定的にすることができる。さらに、一回の電話で、一人でも数百や数千の人々に影響するような連鎖を始められるのだーちょうどジョン・ラヴィスに心臓を提供した人が、他の臓器提供を引き起こして他にも八人の命をたすけたように。電話連絡網は、全体に情報がいきわたるまでのステップも大きく減らすことができて、メッセージが損なわれていく可能性を減少させてくれる。この特別なネットワーク構造はメッセージを広げていくのと保存するのとを助ける。実際、アメリカで家庭用電話が設置されていった数十年の間に、電話連絡網はあらゆる目的に用いられた。1957年のロスアンゼルスタイムスの記事には、スミソニアン宇宙物理観測所がロシアとアメリカの衛星を観察するために、天体観測システムの一部としてアマチュア天文家たちを駆り出すのに電話連絡網が用いられたことが書かれている。
 だけどもしかし、この同じネットワーク構造は、一人の詐欺師に数千人もの人々を騙すことも可能にする。ネズミ講では、金が電話連絡網のような構造を上っていく。新しいメンバーはネットワークに加えられると、「上」に金を送り、より多くの金を供給するために「下」にメンバーが集められる。時が経つにつれて、金はもっともっと多くの人たちから集められる。史上最大とされるネズミ講事件では、2008年に連邦捜査官たちは、30年の間にバーニー・マドッフが 500億ドルを何千人という投資家からだまし取っていた。前述のコルシカでの復讐ネットワークのように、マドッフの投資ネットワークは我々のほとんどが避けたい種類のものである。

 私たちが述べてきたネットワークが図で示される。(訳注:図は省略)最初のものは100人の集団だ。(それぞれ、円もしくは結節点で表される。)どこにもつながりはない。次のものがバケツリレーだ。最初のものにくらべて、99のつながりが追加されている。全ての人は(最初と最後を除くと)別の二人と相互につながっている。(水が入ったバケツと空のバケツを両方に渡すことを意味する。)電話連絡網では、100人とやはり99のつながりがある。だが、最初の人と最後の人たちを除いて、3人と、1つの入ってくるつながり(電話をかけてくる人)と、2つの出ていくつながり(電話をかける人たち)でつながっている。相互的なつながりはなく、情報の流れは一方通行で、相互間のつながりも同様である。100人の兵士の集まりでは、それぞれの分隊内のそれぞれの兵士は、分隊内の他のメンバーを熟知しており、それぞれ9のつながりをもつ。ここでは100人と450のつながりがある。(900ではないのでは、2 人の間のつながりは1つとして1回だけ数えるため)この図では、分隊間にはつながりはなく、少なくとも分隊内でのつながりは分隊間のつながりよりも密なことが見て取れる。これは過剰に単純化しているが、社会ネットワーク内でのコミュニケーションについて別の視点を描き出している。ネットワークの「コミュニティ」はネットワークの他の部分でつながっている人たちの集まりに比べて、よりつながっている人々の集団と定義できる。コミュニティは、何か共有する特性がなくとも、つながりの構造によって定義される。とても基本的な大意としては、社会ネットワークは二つの要素からなる人々が組織化されたものである。人と、人同士のつながり。しかし、バケツリレーや電話連絡網、軍隊と異なって、自然な社会ネットワークの作りはトップから強制されるのは一般的ではない。本物の日々の社会ネットワークは個人それぞれの、友人を多く持ちたがったり交友を避けたり、大きい家族を持ったり核家族だったり、働くのが触れ合いの多い職場だったり無機質な職場だったり、といった個人の固有の傾向から有機的に進化する。
 例えば、次の図では、アメリカの大学の1つの寮での105人の学生のネットワークと彼らの間の友情を示す。平均的には学生はそれぞれ6人の親友がいるが、なかには1人しかいないのもいれば多くいるのもいる。さらに、他の学生に比べて深く埋め込まれている、つまりネットワークの中で、友人や友人の友人を介してより多くのつながりをもっている学生もいる。実際、ネットワークを視覚化するソフトは、よりつながりを多く持つ人を中の方に、あまりない人を隅っこの方に配置するようになっていて、ネットワークの中で人がどんな位置にいるのかを見やすくしてくれる。あなたの友人や家族がよりつながったら、あなたが社会ネットワーク全体でのつながりのレベルが上がったことになるのだ。私たちはこれを『より「中心」に近づく』と呼ぶ。よりつながりがある友人を持ったら文字通りあなたは社会ネットワークの端から中心に動かされるからだ。そして私たちはあなたの「中心」度合いを、あなたの友人や他のつながりだけでなく、あなたの友人の友人やさらに彼らの友人を数えることで測定する。自分のいる場所がどこも同じように感じられるバケツリレー(「左にいるやつが僕にバケツをくれて、右にいるやつに渡してと。どこにいるか関係ないなあ」)と異なり、ここではネットワークの中ではっきり異なる場所に人が配置されている。


 (訳注:105人の学生のつながりの図があるが、略)
 図の説明:同じ寮に住む105人の大学生の交友関係を示すネットワークで、それぞれの円は学生を表し、先は相互の交友を示す。AとBは4人の友達がいるが、Aの4人の友達はそれぞれ互いに交流がありそうだが(お互いにつながりがある)、Bの友達同士には交流はない。AはBよりもよりネットワークの中で動きがあるといえる。また、CとDは6人の友達がいるが、社会ネットワークの中では全く異なる場所にいる。Cはより中心にいるが、Dは端の方にいる。Cの友人は多くの友達がいるのだが、Dの友達には友人は少ないかいない。